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特定の誰かを不快にさせてまで発信するべきものがある。小林よしのり「ゴーマニズム宣言」 [心に残る1コマ]

「芸術は特定の誰かを不快にさせてまで発信するものでは無い、と美大の先生から教わった」というフレーズがネットで注目を集めているのを見た。だから表現の自由もその上で成り立つと。ちょっと目眩を覚えた。その話の続き。

読み返すほどにゲシュタルト崩壊を起こすフレーズだ。
好意的に、破綻の無いように言い換えるなら、せいぜい「人の嫌がることはやめましょう」と言ってるだけに過ぎない。そんなことは幼稚園で教わることで、芸術とか美大とか、一切関係ない。

今の価値観で測りきれないからこそ芸術は保護されるのである。
誰も不快にさせないものであるなら、わざわざ芸術とする必要がない。それは単なる娯楽だ。

まあそんな理屈は冒頭の発言主もわかってることだろうと思う。想像だが、くっだらないレスバトルでマウントを取るために美大出というプロフィールが必要だっただけの話なのだろう。

 
別に世間でいうところの芸術なんか知らんし、熱く語りたくないのだが、小林よしのりのゴーマニズム宣言のことを世の人が「所詮漫画」だと貶めようとする人がいるなら、あえてこれは芸術なんだと熱く語りたい。

何度も描いたが、ベストセラー作家が、歴史に残るほどのレベルの悪の秘密組織に嫌がられることを承知で、表現の衝動を抑えなかったのはすごい。リスクを承知の上で、疑惑の段階で犯人を決めつけているのだ。考えられない。さらに素晴らしいのは、この時にハッキリと誰かを傷つける、表現はそういうものだと覚悟しているということだ。こんな漫画家は後にも先にも現れないだろう。というか、別に漫画家がこんなことしなくていい。
芸術家.jpg

やってることは理屈の上ではアウトである。
ただ理屈通り手順を踏んでいたら、救えない人もいたのかもしれない。
基本、たまたま良い結果が出ただけのことである。
システム化し、誰もがやっていいことではない。
このギリギリを攻めて成果も出す。
これぞ芸術だ。
 
 
今の価値観だと誰が見てもオウム真理教なんか怪しいに決まってると思うだろう。オウムを批判することに(オウムと争う以外に)そんな苦労はないだろうと思ってしまうのではないか。だが、圧力は外野からどころか、なんと教団批判の作品を発表した掲載誌がオウム擁護のキャンペーンを起こしてしまうのである。しかも誰もが教団を疑うであろう地下鉄サリン事件の後に。こういうことは人々の記憶にあまり残らない。
スパ復活3.png
当時の倫理観や道徳や体制と戦い、生き残ってきた芸術家達の物語も、勧善懲悪化して捉えられているものが多いと思う。だから、芸術は誰も傷つけないとか思ってしまう自称芸術家が生まれてきてしまうし、それが真理だと共感を呼んでしまうのではなかろうかと思う。恐ろしいことだ。そして難しいことだと思う。

 
どうも短くまとめられないみたいなので、
さらに続いて小林よしのり氏について語る。

 
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