ジョジョといえばフジツボ!フジツボマニアが押さえておくべき、桜玉吉「しあわせのかたち」 [心に残る1コマ]
アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」第5部いいですな。こんなクオリティでジョジョが連続アニメ化されるだなんて、なんという幸福だと思います。U-NEXTで少し遅れて見てますけども、いよいよ俺認定第五部ナンバーワンバトル、メタリカvsボス戦が始まりますよ。
牛乳配達にケチつける主婦みたいに細かいこと言うようですけど、原作でいう58巻のドッピオ初登場の直前に、61巻で明かされるボスの出生の秘密をインサートしてくるのはどうなんでしょう。いや、いいんですけど、そのボスの服装がまんまで、ドッピオが出てきた瞬間にこいつがボスと分かるじゃないですか。
ドッピオ初登場時って読者は「なんだこいつは?新手のスタンド使いなんだろうけど」って風に読んでたと思うんですよ。ところが謎の占い師が「ゴゴゴゴゴ」と登場する。ああ、こっちが新手のスタンド使いかってミスリードを誘う意図があったと思うんですけども。
ところで、ボスの出生のエピソードのなかに、獄中出産した母親が妊娠したのが2年以上前だとして、そんな話は誰も信じない、「膝の中で育つフジツボの話の方がまだ真実味がある」ってのがありました。原作だとナレーションに言わせてましたけど、アニメでは女性看守に言わせてましたね。
そのフジツボの話を漫画で紹介してるのがあったので紹介します。
いわゆる都市伝説的なものなのでしょうけども、自分はこの漫画で初めて知りましたし、他で聞いたことはありません。
漫画はファミコン通信で連載していた桜玉吉の「しあわせのかたち」。
この作品はゲームのパロディ漫画で、フジツボのエピソードが登場するのは1992年発売の単行本3巻。
ドラクエ風の冒険の末にラスボスの基地へたどり着くと、そこは主人公たちをバックアップしてくれている神様の住む雲の上の世界だった。
実は雲の裏側に、石をひっくり返すと虫がわしゃわしゃいるみたいに敵がへばりついていたというギャグで、ここからフジツボの話を連想する。
ところでフジツボがなんなのかって話ですけど、船の底とかにくっついて固くなっちゃう生き物ですね。これとらないと船重くなっちゃうんでメンテナスするんですけど、タモリ倶楽部でもやってました。船底を赤く塗るのはフジツボよけなんだそうです。
ジョジョでも過去に取り上げてましたね。14巻のダークブルームーン戦か。
牛乳配達にケチつける主婦みたいに細かいこと言うようですけど、原作でいう58巻のドッピオ初登場の直前に、61巻で明かされるボスの出生の秘密をインサートしてくるのはどうなんでしょう。いや、いいんですけど、そのボスの服装がまんまで、ドッピオが出てきた瞬間にこいつがボスと分かるじゃないですか。
ドッピオ初登場時って読者は「なんだこいつは?新手のスタンド使いなんだろうけど」って風に読んでたと思うんですよ。ところが謎の占い師が「ゴゴゴゴゴ」と登場する。ああ、こっちが新手のスタンド使いかってミスリードを誘う意図があったと思うんですけども。
ところで、ボスの出生のエピソードのなかに、獄中出産した母親が妊娠したのが2年以上前だとして、そんな話は誰も信じない、「膝の中で育つフジツボの話の方がまだ真実味がある」ってのがありました。原作だとナレーションに言わせてましたけど、アニメでは女性看守に言わせてましたね。
そのフジツボの話を漫画で紹介してるのがあったので紹介します。
いわゆる都市伝説的なものなのでしょうけども、自分はこの漫画で初めて知りましたし、他で聞いたことはありません。
漫画はファミコン通信で連載していた桜玉吉の「しあわせのかたち」。
この作品はゲームのパロディ漫画で、フジツボのエピソードが登場するのは1992年発売の単行本3巻。
ドラクエ風の冒険の末にラスボスの基地へたどり着くと、そこは主人公たちをバックアップしてくれている神様の住む雲の上の世界だった。
実は雲の裏側に、石をひっくり返すと虫がわしゃわしゃいるみたいに敵がへばりついていたというギャグで、ここからフジツボの話を連想する。
ところでフジツボがなんなのかって話ですけど、船の底とかにくっついて固くなっちゃう生き物ですね。これとらないと船重くなっちゃうんでメンテナスするんですけど、タモリ倶楽部でもやってました。船底を赤く塗るのはフジツボよけなんだそうです。
ジョジョでも過去に取り上げてましたね。14巻のダークブルームーン戦か。
しあわせのかたち 1‾最新巻 改定版 (Beam comix) [マーケットプレイス コミックセット]
- 作者: 玉吉 桜
- 出版社/メーカー: エンターブレイン
- メディア: コミック
「ルパン三世」「アニメ三銃士」のモンキーパンチ亡くなる。この謎の漫画家に詳しい吉本浩二「ルーザーズ」を紹介 [時事ネタ]
モンキーパンチが亡くなった。
漫画を一冊も持っていないけども、子供の頃はアニメ「ルパン三世」の再放送をTVにかじりつくようにして見ていた。
同時期、親戚の家に遊びに行ったら「ルパン小僧」の単行本があったのでワクワクしながら読んだのだけど、なんか根本的に期待していたものと違うのである。もっとイメージ通りのルパン三世が漫画で読めたらなあー、と思っていたら、作画がモンキーパンチでないルパン三世の漫画が始まって、「やったぜ!」と思ったものだけれど、それすらも俺はお気に召さなかったのである。
アニメ第三弾が始まった時も、「なんか違う!」と思って受け付けなかった。それ以後、TVスペシャルも映画もロクに見なくなった。「カリオストロの城」ですら、長年受け付けなかったのである。この記事を書くにあたって自分が熱狂したルパンは何期だったのか調べて見たが、第二期、ジャケットの赤いルパンだったみたいだ。
別にルパンはこうだ!という熱論をふるいたい訳ではない。見返したこともないし、見返して検証するつもりも特にない。U-NEXTの会員特典で見られるようだが。現在広く浸透しているルパンのイメージは二期が作ったとする説がある。原作はもっとアダルトで、大人になった今では作者の狙いがよくわかるが、3期以降全てに拒否反応を起こすぐらい、マイルドな2期が理想のルパン三世像として刷り込まれてしまったのだ。すごく作者が遠いところにいるような気がする。
そもそもモンキーパンチという名前が謎だ。
週刊漫画アクションの創刊時のエピソードを漫画にした吉本浩二の「ルーザーズ~日本初の週刊青年漫画誌の誕生~」という作品があるが、その辺に詳しく載っている。漫画アクションはモンキーパンチを柱に創刊した漫画誌で、その命名も編集長がほぼ強制的に行ったのだという。
海外の風刺漫画に影響されたというモンキーパンチの作風は当時新鮮だったらしく、名前もそれっぽくした方が良いという判断だったらしい。いわば、一人の漫画家のデビューをプロデュースした訳である。バロン吉元、ケン月影も同じ編集長の命名だという。
土田世紀の「編集王」にマンボ好塚とかプラム佐和子とか、変な名前の漫画家がいっぱい出てくるが、この辺に影響を受けているのかなと思うと腑に落ちる。そんなアントニオ猪木的な芸名をつける慣習ないだろとか、長らく謎だったが。。。
ルーザーズに描かれている文学くずれが漫画編集者になるというのも編集王であったネタ。カラオケボックスが無いので歌声喫茶でトロイカを熱唱するサラリーマン。ルパン三世創成期はそんな時代だったのだ。。。
あまりモンキーパンチに憧れている作家というのも聞いたことがない。
ネームバリューがあるので神輿にされてる人というイメージがある。
亡くなられた直後に書くのも不遜だが、
一度自分の中の正直なモンキーパンチ観を整理したかったので書いて見た。
ルーザーズも期待しているので、一度紹介したかった。
子供の頃、友達の家に遊びに行くと、ルパンのおもちゃが置いてあることが多かった。中に針金が仕込まれており、アニメのようなプロポーションで、アニメのようなコミカルなポーズをとらせることができる優れものだ。ネットで写真を探して見て見たが、今見てもとてもよく出来ていると思うのである。
翻案としてクレジットされてる「アニメ三銃士」も好きだったよ。
酒井法子は主題歌を歌って大人気になったが、パンプキン(そんな名前だったんだ)の歌うエンディングテーマも好きだった。音源が欲しい!
漫画を一冊も持っていないけども、子供の頃はアニメ「ルパン三世」の再放送をTVにかじりつくようにして見ていた。
同時期、親戚の家に遊びに行ったら「ルパン小僧」の単行本があったのでワクワクしながら読んだのだけど、なんか根本的に期待していたものと違うのである。もっとイメージ通りのルパン三世が漫画で読めたらなあー、と思っていたら、作画がモンキーパンチでないルパン三世の漫画が始まって、「やったぜ!」と思ったものだけれど、それすらも俺はお気に召さなかったのである。
アニメ第三弾が始まった時も、「なんか違う!」と思って受け付けなかった。それ以後、TVスペシャルも映画もロクに見なくなった。「カリオストロの城」ですら、長年受け付けなかったのである。この記事を書くにあたって自分が熱狂したルパンは何期だったのか調べて見たが、第二期、ジャケットの赤いルパンだったみたいだ。
別にルパンはこうだ!という熱論をふるいたい訳ではない。見返したこともないし、見返して検証するつもりも特にない。U-NEXTの会員特典で見られるようだが。現在広く浸透しているルパンのイメージは二期が作ったとする説がある。原作はもっとアダルトで、大人になった今では作者の狙いがよくわかるが、3期以降全てに拒否反応を起こすぐらい、マイルドな2期が理想のルパン三世像として刷り込まれてしまったのだ。すごく作者が遠いところにいるような気がする。
そもそもモンキーパンチという名前が謎だ。
週刊漫画アクションの創刊時のエピソードを漫画にした吉本浩二の「ルーザーズ~日本初の週刊青年漫画誌の誕生~」という作品があるが、その辺に詳しく載っている。漫画アクションはモンキーパンチを柱に創刊した漫画誌で、その命名も編集長がほぼ強制的に行ったのだという。
海外の風刺漫画に影響されたというモンキーパンチの作風は当時新鮮だったらしく、名前もそれっぽくした方が良いという判断だったらしい。いわば、一人の漫画家のデビューをプロデュースした訳である。バロン吉元、ケン月影も同じ編集長の命名だという。
土田世紀の「編集王」にマンボ好塚とかプラム佐和子とか、変な名前の漫画家がいっぱい出てくるが、この辺に影響を受けているのかなと思うと腑に落ちる。そんなアントニオ猪木的な芸名をつける慣習ないだろとか、長らく謎だったが。。。
ルーザーズに描かれている文学くずれが漫画編集者になるというのも編集王であったネタ。カラオケボックスが無いので歌声喫茶でトロイカを熱唱するサラリーマン。ルパン三世創成期はそんな時代だったのだ。。。
あまりモンキーパンチに憧れている作家というのも聞いたことがない。
ネームバリューがあるので神輿にされてる人というイメージがある。
亡くなられた直後に書くのも不遜だが、
一度自分の中の正直なモンキーパンチ観を整理したかったので書いて見た。
ルーザーズも期待しているので、一度紹介したかった。
子供の頃、友達の家に遊びに行くと、ルパンのおもちゃが置いてあることが多かった。中に針金が仕込まれており、アニメのようなプロポーションで、アニメのようなコミカルなポーズをとらせることができる優れものだ。ネットで写真を探して見て見たが、今見てもとてもよく出来ていると思うのである。
翻案としてクレジットされてる「アニメ三銃士」も好きだったよ。
酒井法子は主題歌を歌って大人気になったが、パンプキン(そんな名前だったんだ)の歌うエンディングテーマも好きだった。音源が欲しい!
ルーザーズ~日本初の週刊青年漫画誌の誕生~(1) (アクションコミックス)
- 作者: 吉本 浩二
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2018/04/28
- メディア: コミック
ルーザーズ~日本初の週刊青年誌の誕生~(2) (アクションコミックス)
- 作者: 吉本 浩二
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2018/12/28
- メディア: コミック
ルーザーズ~日本初の週刊青年漫画誌の誕生~ (3) (アクションコミックス)
- 作者: 吉本 浩二
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 2019/06/27
- メディア: コミック
タグ:吉本浩二
俺が人生の中で唯一恋してしまった漫画の中の少女、楠桂「妖魔」 [実写映画化希望!]
ひとつ ひとよの恋ならば
ふたつ ふたりで地獄へと
みっつ みなを殺しても
よっつ 黄泉への道しるべ
久しぶりに楠桂の「妖魔」を読み返してみたけど、
〜いいっ!(アニメ版「監督不行届」の庵野秀明の声で)
1986年に出版された忍者が妖怪と戦うアクション漫画で、掲載誌は「りぼん」だった。
楠桂は「八神くんの家庭の事情」の後半から「鬼切丸」で画風が完成していくのだけれども、そうなると俺は興味を失ってしまった。このころのみずみずしい安定しきっていない作画が大好きだ。
短編集「たとえばこんな幽霊奇談」はどれも良いし、「古祭(いにしえまつり)」も好きだ。
大きな声じゃ言えないが、唯一俺が恋してしまったヒロインの出てくる漫画である。
思春期のころの話ですよ!?
いやあ、今見てもかわいい。
ちなみにこの漫画の女の子はどれもかわいい。
実写映画化してくれたら絶対見るのに。アニメ化はしてるけど。
さて、俺が恋してしまった女の子はどれでしょう?
あや。(一人目)
主人公の心の中に居座り続けるララァ・スン的な少女。
ゆう。
超能力のせいで周りから迫害される少女。
モデルは薬師丸ひろ子。なるほどなと思う。
あや。(二人目)
主人公の相棒になる活発な少女。
石原真理子がモデル。若いころのイメージがあまりありませんけど。。。
冒頭の数え歌は、
いつつ 戦の血の雨の
むっつ 骸とかわりゃせぬ
ななつ 涙もかれはてて
やっつ 闇夜がとけてゆく
ここのつ 今夜は祝言を
とおで吐息を朱に染めて…
と、続くのだけども、非常によくできてると思う。
元ネタがあるんだろうか?
異能だと思うなあ。
ラストバトルを数え歌と合わせて魅せている。
この辺のセンスは他の良作の中にあっても更に突出してると思うが、あまりその後の作風で見られないような気がする。
タグ:楠桂
楠本まきのジェンダーバイアス問題最終回。結論はマスターキートン4巻「喜びの壁」を読んで出直せ [時事ネタ]
楠本まきさんはジェンダーバイアスという言葉について根本的な誤解をしている。
インタビューをしたサイトが、ジェンダーバイアスの定義を以下のように書いている。
>性別によって社会的・文化的役割の固定概念を持つこと。社会における女性に対する評価や扱いが差別的であることや、「女性(男性)とはこうあるべき」となどの偏ったイメージ形成を指す。
彼女にとってジェンダーバイアスは太字の「社会における女性に対する評価や扱いが差別的であること」としてしか捉えられておらず、「「女性(男性)とはこうあるべき」となどの偏ったイメージ形成を指す。」の「(男性)」の部分については何も考えが及んでいないのである。
だからまさか自分が、滅びればいいというジェンダーバイアスのかかった漫画家だという可能性など露ほどにも思わず、呑気にしているのである。
こう書くと、こう反論するかもしれない。
「男は社会的弱者ではないからバイアスをかけられていても問題ない。」
よくある偽フェミニストの逆ギレだ。
それについてはこう答えたい。
ジェンダーバイアスに「よいジェンダーバイアス」とか「許容範囲のジェンダーバイアス」なんてないんじゃなかったのかよ!?(ドヤ顔で)
ひとたび異性について語れば、バイアスがかかっていると異性から難癖つけられても完全に否定する方法はない。これは男も女も同じである。
その難癖だって100%の同意が同性から得られるわけではない。
「ユカをよぶ海」や楠本さんの漫画によって新たな女性像が確立されたその影で、古風なつまらない女にされてしまって苦しむ人も多勢いるだろう。
実際問題、婚活や女子力アップに頑張る女性をジェンダーバイアスに囚われているとする楠本さんの見識は差別的だと思う。素敵なパートナーと出会いたいのは誰もが持っている本能だし、だからと言って男のためだけに身綺麗にしているわけでもないはずだ。
楠本さんの場合はバイアスがかかっているというよりも、単純に知識不足。想像力に欠けているという方が近いと思う。
引退したイチローが、おにぎり2800個も作って現役時代を支えてくれた奥さんに感謝のコメントをしたところ、モラハラだと難癖つける人がいて話題になった。死ぬほどアホかと思う。二人の信頼関係あってのことなのに、それに割り込もうとする。現実社会でそれやったらアウトもアウト。アウトだ馬鹿野郎。ここまで行くときちがいである。
中国嫁日記で「私だったら嫌だから、奥さんをネタにするのはやめるべきだ」みたいな狂ったコメントをつけている人を思い出した。
他、ツイッターでたまたま見たのだが、
年の差婚は年取っている側が若い側を深くは愛していないのだそうだ。
そう決まっているらしい。
ただのトロフィーで、他人に自慢できるから価値があると思っているだけなのだそうだ。
そう決まっているらしい。
結局は自己愛だから、年の差婚する男の殆どがモラハラ男になるのだそうだ。
そう決まっているらしい。
若い子と付き合ったら俺はこんなこと言われて生きていかなきゃいかんわけだ。
こういう風に思う人がいるから彼女ができ辛さにもつながってくるわけだ。
差別だなあ、寂しいなあ。いやまあ、これが世間の現実なんだけどもさ。
…しかしよくもまあこんなこと大っぴらに書けるなと思う。
悪人の自白ってこういうことか。
本人でもないのにその人の気持ちを分かったつもりで明後日な代弁しようとする人多すぎィ!
これもまたバイアスの為せる技である。
そういう人にはマスターキートン4巻、喜びの壁をお勧めしたい。
愛する妻を亡くして苦しみ、さらにその苦しみが日々癒えていくことに苦しみ、本当に自分は妻を愛していたのかと悩み苦しむまでになった男に、ライアン神父はこう説く。
「なぜ悩むんだね、人間は一生、他人の心などわかるはずもないし、人の死を本当に悲しむこともできはしない。」
「あなたが奥さんを愛していたのは本当のことだ。それは、あなたの中にあるからだ。」
「でも、奥さんがあなたを愛していたかは、あなたの思い込みだけで、本当にはわからない…。ましてや、解りあっていたなんて幻想にすぎない。」
「人間は一生、自分という宇宙から出られはしない。」
「自分の中に描いた他人と共に暮らし、ドラマを作り、泣き、悲しみ、死んでゆく…」
「いや、これは人間だけではない。鳥や獣もそうかもしれない。」
恋人、夫婦、家族、親友の間柄でもバイアスは避けられない。
全くの他人ならもっと避けられない。
バイアスはあって当然なのだ。
差別は人間の本能だからなくならない。
差別心が無いと言い切れる人は、人間でないということと同意。
バイアスがない人間などいない。
バイアスがないと思い込んでいる人は間違いなく邪悪だ。
最近、別件で「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」という本を読んでいる。
なかなか良いタイトルである。
そういうオチになる本なのか、まだ分からないが、つまりはそういうことだ。
自分に原罪が無いとする人間は良心の呵責がないからどこまでも暴走して、やがてとんでもない虐殺を引き起こす。そう俺のバイアスが断言させるのである。
ちなみにライアン神父の言葉は、
「あるいは私の言ったことの方が幻想で、人間の心は本当には、通じ合っているのかもしれないよ。」
「セントフランチェスコのように奇跡を見るしかないな。」
と続く。
その奇跡とはなんだったのかは漫画を読んでほしい。
インタビューをしたサイトが、ジェンダーバイアスの定義を以下のように書いている。
>性別によって社会的・文化的役割の固定概念を持つこと。社会における女性に対する評価や扱いが差別的であることや、「女性(男性)とはこうあるべき」となどの偏ったイメージ形成を指す。
彼女にとってジェンダーバイアスは太字の「社会における女性に対する評価や扱いが差別的であること」としてしか捉えられておらず、「「女性(男性)とはこうあるべき」となどの偏ったイメージ形成を指す。」の「(男性)」の部分については何も考えが及んでいないのである。
だからまさか自分が、滅びればいいというジェンダーバイアスのかかった漫画家だという可能性など露ほどにも思わず、呑気にしているのである。
こう書くと、こう反論するかもしれない。
「男は社会的弱者ではないからバイアスをかけられていても問題ない。」
よくある偽フェミニストの逆ギレだ。
それについてはこう答えたい。
ジェンダーバイアスに「よいジェンダーバイアス」とか「許容範囲のジェンダーバイアス」なんてないんじゃなかったのかよ!?(ドヤ顔で)
ひとたび異性について語れば、バイアスがかかっていると異性から難癖つけられても完全に否定する方法はない。これは男も女も同じである。
その難癖だって100%の同意が同性から得られるわけではない。
「ユカをよぶ海」や楠本さんの漫画によって新たな女性像が確立されたその影で、古風なつまらない女にされてしまって苦しむ人も多勢いるだろう。
実際問題、婚活や女子力アップに頑張る女性をジェンダーバイアスに囚われているとする楠本さんの見識は差別的だと思う。素敵なパートナーと出会いたいのは誰もが持っている本能だし、だからと言って男のためだけに身綺麗にしているわけでもないはずだ。
楠本さんの場合はバイアスがかかっているというよりも、単純に知識不足。想像力に欠けているという方が近いと思う。
引退したイチローが、おにぎり2800個も作って現役時代を支えてくれた奥さんに感謝のコメントをしたところ、モラハラだと難癖つける人がいて話題になった。死ぬほどアホかと思う。二人の信頼関係あってのことなのに、それに割り込もうとする。現実社会でそれやったらアウトもアウト。アウトだ馬鹿野郎。ここまで行くときちがいである。
中国嫁日記で「私だったら嫌だから、奥さんをネタにするのはやめるべきだ」みたいな狂ったコメントをつけている人を思い出した。
他、ツイッターでたまたま見たのだが、
年の差婚は年取っている側が若い側を深くは愛していないと思う。ただのトロフィーで、他人に自慢できるから価値があると思っているだけじゃないの?結局は自己愛だから、年の差婚する男の殆どがモラハラ男になるのでは?
— ann (@a_n_tokyo) 2019年4月6日
年の差婚は年取っている側が若い側を深くは愛していないのだそうだ。
そう決まっているらしい。
ただのトロフィーで、他人に自慢できるから価値があると思っているだけなのだそうだ。
そう決まっているらしい。
結局は自己愛だから、年の差婚する男の殆どがモラハラ男になるのだそうだ。
そう決まっているらしい。
若い子と付き合ったら俺はこんなこと言われて生きていかなきゃいかんわけだ。
こういう風に思う人がいるから彼女ができ辛さにもつながってくるわけだ。
差別だなあ、寂しいなあ。いやまあ、これが世間の現実なんだけどもさ。
…しかしよくもまあこんなこと大っぴらに書けるなと思う。
悪人の自白ってこういうことか。
本人でもないのにその人の気持ちを分かったつもりで明後日な代弁しようとする人多すぎィ!
これもまたバイアスの為せる技である。
そういう人にはマスターキートン4巻、喜びの壁をお勧めしたい。
愛する妻を亡くして苦しみ、さらにその苦しみが日々癒えていくことに苦しみ、本当に自分は妻を愛していたのかと悩み苦しむまでになった男に、ライアン神父はこう説く。
「なぜ悩むんだね、人間は一生、他人の心などわかるはずもないし、人の死を本当に悲しむこともできはしない。」
「あなたが奥さんを愛していたのは本当のことだ。それは、あなたの中にあるからだ。」
「でも、奥さんがあなたを愛していたかは、あなたの思い込みだけで、本当にはわからない…。ましてや、解りあっていたなんて幻想にすぎない。」
「人間は一生、自分という宇宙から出られはしない。」
「自分の中に描いた他人と共に暮らし、ドラマを作り、泣き、悲しみ、死んでゆく…」
「いや、これは人間だけではない。鳥や獣もそうかもしれない。」
恋人、夫婦、家族、親友の間柄でもバイアスは避けられない。
全くの他人ならもっと避けられない。
バイアスはあって当然なのだ。
差別は人間の本能だからなくならない。
差別心が無いと言い切れる人は、人間でないということと同意。
バイアスがない人間などいない。
バイアスがないと思い込んでいる人は間違いなく邪悪だ。
最近、別件で「道徳感情はなぜ人を誤らせるのか」という本を読んでいる。
なかなか良いタイトルである。
そういうオチになる本なのか、まだ分からないが、つまりはそういうことだ。
自分に原罪が無いとする人間は良心の呵責がないからどこまでも暴走して、やがてとんでもない虐殺を引き起こす。そう俺のバイアスが断言させるのである。
ちなみにライアン神父の言葉は、
「あるいは私の言ったことの方が幻想で、人間の心は本当には、通じ合っているのかもしれないよ。」
「セントフランチェスコのように奇跡を見るしかないな。」
と続く。
その奇跡とはなんだったのかは漫画を読んでほしい。
MASTER KEATON完全版 4―MASTERキートン (ビッグコミックススペシャル)
- 作者: 浦沢 直樹
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2011/10/28
- メディア: コミック
マンガ文化を衰退させる親のお仕着せ、「自主規制」。楠本まきのジェンダーバイアス論の先に明確に見える落とし穴 [時事ネタ]
楠本まきさんはインタビューの中でこう語っている。
>少女漫画が、ただ不作為にジェンダーバイアスを容認するのをやめて、それを覆すような、肯定感や勇気を与える場となれば、自ずと少女漫画を読む人もまた増えるんじゃないかと私は思うんですけど。私の希望的観測かもしれません。
少女漫画家時代のちばてつやは「ユカをよぶ海」で現実に見合ったリアリティある新たなヒロイン像を確立して賞賛を得た。そういうことが漫画では繰り返し行われてきたし、楠本さんもしてきたはずである。それを今、マニュアルによって自主規制化することによって読者が増えると楠本さんはおっしゃっているが、俺はとんでもない間違いだと思う。
漫画はそもそも衰退する構造を抱えている。
それが親のお仕着せだ。
楠本さんが読者を取り戻せると追加で無邪気に行おうとしている自主規制は、そもそもマンガを衰退させる避けられない業界構造のひとつなのである。
ブログに書く機会を失ってしまっているが、毒親系の漫画を一時期たくさん読んだ。
その時に思ったのは、親は良かれと思って子供に失敗させまいとする。
だが、子供は失敗してでも自分の道は自分で選択したいのだ。
そして、そんな親を子供は嫌い、時には殺そうとまで思う。…ということだ。
チキンレースというのがある。
例えば断崖絶壁に向かって走りだし、恐怖して止まった方が負け。死ぬかもしれないギリギリのところを競う遊びだ。マッチに火をつけてみたり、河原で拾ったエロ本を読んだり。親に隠れて悪さをする子供の心理はこれに近いと思う。
拠り所となる親の存在は認めつつも、そこは無菌室である。親の言ってたことも単なる建前だったんだと失望することも多い。いじめは大人になってもある。外見もお金も大事。職業に貴賎はないのも嘘だし、男女平等と言いつつも世の中には男も女も異性をバカにする人で溢れている。
いつか社会に出た時に、危険なこと、もの、から避けるセンサーである「世間知」を身につけるため、子供達は本能からか危険なことに挑み、リアルに生きる術を学んでいくのではないか。
島本和彦の漫画「ワンダービット」に、悪書を追放するのではなく、親が良書と思った本をバンバン買い与えれば良い、という話がある。
なかなか好きなエピソードなのだが、まず子供は読まないだろうと思う。親の与える本から危険な香りがしてこないからだ。
手塚治虫の「ぼくはマンガ家」にはこうある。
>時には、親や先生や評論家が口を揃えて、「これはまことに良い漫画だ。すすんで子供に読ませたい」という漫画が出た。だが、結果はさんざんだった。子供はそっぽを向き、返本の山で、出版社は二度とそんなものに手を出さなくなった。
>この矛盾ーーそして、漫画はとり上げられても焼かれても、子供がどこからかひっぱり出してきては、こっそりかくれて読む現実ー。
世に溢れる様々なものを、子供が勝手にとって危険な成分をうまく取り除けずに消化不良を起こすことを親は心配する。魚の小骨を取り除いて食べさせようとする。子供からすれば信頼してよという話である。たとえ失敗して喉に小骨が刺さったとしてもそれはかけがえのない学びとなるのである。
漫画が大衆娯楽として認知され、様々な規制を要求されるというのはまあわかる。しかし漫画は確実につまらなく、ぬるく、安全になっていったはずである。業界が親に成り代わってのお仕着せをやろうというのだ。子供が読まなくなって当たり前である。楠本まきさんの話に戻るが、楠本さんは漫画の小骨を取ろうとしている。文字通り今よりさらに骨抜きにしようとしているだけだ。安全になるのよ?何が悪いの?と言う態度である。
光原伸の「アウターゾーン」の87話「禁書」という有名なエピソードがある。
有害図書によって重罪にまでなってしまう近未来を描いたフィクションだ。
裁判にかけられた西崎は最後に言う。
「子供は我々が考えているよりずっと大人なんだ。あんた達も昔は子供だったのに何故それがわからない…!!」
もっと言えばジェンダーバイアスという言葉は括りとして便利で、大雑把すぎる。そもそもジェンダーバイアスが無い人間などいるわけがないのだ。いるとしたらそれは一見して相手が男か女かわからない、初期のドラゴンボールの孫悟空みたいな人間だろう。
ジェンダーバイアスとは、もっと突き詰めていくと他人バイアスなのかもしれない。人のことを分かったような気になる。他人は自分ができることを同じように出来る。同じように考える。
次回はその辺のことを書くかもしれない。
>少女漫画が、ただ不作為にジェンダーバイアスを容認するのをやめて、それを覆すような、肯定感や勇気を与える場となれば、自ずと少女漫画を読む人もまた増えるんじゃないかと私は思うんですけど。私の希望的観測かもしれません。
少女漫画家時代のちばてつやは「ユカをよぶ海」で現実に見合ったリアリティある新たなヒロイン像を確立して賞賛を得た。そういうことが漫画では繰り返し行われてきたし、楠本さんもしてきたはずである。それを今、マニュアルによって自主規制化することによって読者が増えると楠本さんはおっしゃっているが、俺はとんでもない間違いだと思う。
漫画はそもそも衰退する構造を抱えている。
それが親のお仕着せだ。
楠本さんが読者を取り戻せると追加で無邪気に行おうとしている自主規制は、そもそもマンガを衰退させる避けられない業界構造のひとつなのである。
ブログに書く機会を失ってしまっているが、毒親系の漫画を一時期たくさん読んだ。
その時に思ったのは、親は良かれと思って子供に失敗させまいとする。
だが、子供は失敗してでも自分の道は自分で選択したいのだ。
そして、そんな親を子供は嫌い、時には殺そうとまで思う。…ということだ。
チキンレースというのがある。
例えば断崖絶壁に向かって走りだし、恐怖して止まった方が負け。死ぬかもしれないギリギリのところを競う遊びだ。マッチに火をつけてみたり、河原で拾ったエロ本を読んだり。親に隠れて悪さをする子供の心理はこれに近いと思う。
拠り所となる親の存在は認めつつも、そこは無菌室である。親の言ってたことも単なる建前だったんだと失望することも多い。いじめは大人になってもある。外見もお金も大事。職業に貴賎はないのも嘘だし、男女平等と言いつつも世の中には男も女も異性をバカにする人で溢れている。
いつか社会に出た時に、危険なこと、もの、から避けるセンサーである「世間知」を身につけるため、子供達は本能からか危険なことに挑み、リアルに生きる術を学んでいくのではないか。
島本和彦の漫画「ワンダービット」に、悪書を追放するのではなく、親が良書と思った本をバンバン買い与えれば良い、という話がある。
なかなか好きなエピソードなのだが、まず子供は読まないだろうと思う。親の与える本から危険な香りがしてこないからだ。
手塚治虫の「ぼくはマンガ家」にはこうある。
>時には、親や先生や評論家が口を揃えて、「これはまことに良い漫画だ。すすんで子供に読ませたい」という漫画が出た。だが、結果はさんざんだった。子供はそっぽを向き、返本の山で、出版社は二度とそんなものに手を出さなくなった。
>この矛盾ーーそして、漫画はとり上げられても焼かれても、子供がどこからかひっぱり出してきては、こっそりかくれて読む現実ー。
世に溢れる様々なものを、子供が勝手にとって危険な成分をうまく取り除けずに消化不良を起こすことを親は心配する。魚の小骨を取り除いて食べさせようとする。子供からすれば信頼してよという話である。たとえ失敗して喉に小骨が刺さったとしてもそれはかけがえのない学びとなるのである。
漫画が大衆娯楽として認知され、様々な規制を要求されるというのはまあわかる。しかし漫画は確実につまらなく、ぬるく、安全になっていったはずである。業界が親に成り代わってのお仕着せをやろうというのだ。子供が読まなくなって当たり前である。楠本まきさんの話に戻るが、楠本さんは漫画の小骨を取ろうとしている。文字通り今よりさらに骨抜きにしようとしているだけだ。安全になるのよ?何が悪いの?と言う態度である。
光原伸の「アウターゾーン」の87話「禁書」という有名なエピソードがある。
有害図書によって重罪にまでなってしまう近未来を描いたフィクションだ。
裁判にかけられた西崎は最後に言う。
「子供は我々が考えているよりずっと大人なんだ。あんた達も昔は子供だったのに何故それがわからない…!!」
もっと言えばジェンダーバイアスという言葉は括りとして便利で、大雑把すぎる。そもそもジェンダーバイアスが無い人間などいるわけがないのだ。いるとしたらそれは一見して相手が男か女かわからない、初期のドラゴンボールの孫悟空みたいな人間だろう。
ジェンダーバイアスとは、もっと突き詰めていくと他人バイアスなのかもしれない。人のことを分かったような気になる。他人は自分ができることを同じように出来る。同じように考える。
次回はその辺のことを書くかもしれない。
アウターゾーン 全15巻完結 (ジャンプコミックス) [マーケットプレイス コミックセット]
- 作者: 光原 伸
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1994
- メディア: コミック
伝説の「嫌いな漫画を終わらせる権利を持った漫画家」がついに誕生するのか?どうなるジェンダーバイアス論 [時事ネタ]
小畑健&大場つぐみの「バクマン。」のライバルキャラクター新妻エイジ。
その初登場シーンには震えた。
「もし僕がジャンプで一番人気の作家になったら、僕が嫌いなマンガをひとつ終わらせる権限をください」
ゾクゾクした。
このセリフは結局「見栄切り」の用途で使われたということになるが、読んでいるうちにいつ伏線になるかという緊張感も与えていたと思う。
さて前回の続き。
楠本まきさんはジェンダーバイアスのかかった作品は滅べばいいと思っていて、そのガイドラインを作ろうという。
根本的な疑問なのだが、ルールを作ったはいいが、それが拡大解釈されて過剰な自主規制に繋がらないとでも思ってるんだろうか。あまり漫画家で、自ら出版コード的なものを作ろうという話は自分が不勉強なのかあまり聞いたことがない。
(画像は「ゴーマニズム宣言」)
楠本さんは、タバコの描写で書き直しを命じられた経験を持っているそうだ。
未成年はもちろん、かっこいい大人がタバコを吸うシーンはダメで、カッコ悪いのはOKなのだそうだ。そんな業界のルールを信頼している人なのである。
聖人か。
しかも本人はこれまで生きてきて、何らジェンダーの被害を受けたことがないというのだ。大きな枠組みの中ではあったとも言っているが。ニュースで女子の医者のを見て、初めて問題意識を持ったそうだ。黒人でもなんでもない日本人の家族から始まった黒人差別反対運動が、過剰な自主規制に発展していったのと似ている気がする。
(画像は「ゴーマニズム宣言」)
だから問題として出てくるのが「おたまを持ったお母さん」だったり、「婚活アップ女子」だったり。そこなの?と思ってしまう。潜在的な差別心を助長するという理屈はわからんでもないが、単純に言ってそれを発禁にできるだろうか。それに潜在的とかいいだしたらなんでもアリだ。リアリティを追求するのをサボっているというのはそうかもしれないが、記号的に描かなきゃいかん場合もある。そもそも漫画というのは記号の集合体で、省略もテクニックの一つじゃあないか。
こういうルールが適用されると昔の漫画が発禁になる恐れもあるな。
ドクタースランプ完全版なんて、完全版と言いつつも読むに耐えないものになっているが。
前回紹介した、ちばてつやの「ユカをよぶ海」のように面白い漫画を描いてジェンダーバイアスが取り除かれれば一番良いと思うし、作家として健全だと思う。理想論かもしれないが。楠本まきさんは作家なのに何故ガイドライン作りに頼ってそれを目指さないのか。描いてるらしいけど、残念ながらこっちまで届いてきていない。
ふと気づいたけど、俺はこの人の描いた非ジェンダーバイアス漫画を読もうという気が全く起きなかった。掲載されていた1コマから、ニーチェ先生とか、クロエの流儀みたいな「うまいこと言ってやったぜ」的なのが鼻につく論破漫画の匂いを感じたからだろうか。「滅びればいい」とまで言っているということは、自分の作品には一切ジェンダーバイアスは無いと盲信しているのだろう。そんな人間は間違いなく邪悪である。
長年漫画を読んできて、漫画とはこういうものだという固定概念が崩壊することが度々ある。「こういうものだ」が書き換えられてアップデートされるたびに、自分の小ささを実感し、漫画ってのは自由ですごいものだなあと思い直すのだ。
だから老害化してしまった作家を見るとゾクゾクする。
誤解されるかもしれないが、正直嬉しいと思ってしまう。
スプラッタ描写に爆笑するようなホラー映画ファンの心理といおうか。
(自分はホラー映画が苦手だけれども)
手塚治虫を邪道と評した島田啓三。
プライベートな場所で発言したことが後世に伝えられてしまったのは気の毒ではある。
自分が漫画のガイドラインだと錯覚した寺田ヒロオ。
作家では無いけども、アトムやライダーを暴力反対の槍玉に挙げた人たち。
寺田島田に関して、このまま漫画が自由にアップデートを繰り返して言ったら自分は淘汰されてしまうという危機感があったのではという説を最近聞いて、なるほどなあと思った。だから良識という言葉を盾に邪魔者の排除を図って、「自分に居心地の良い古き良き時代」を守ろうとした?楠本まきさんもそうだとは言わないけども、近いところはあると思う。漫画で敵わないから、良識を持ち出して政治で漫画表現を変えようとする。芸人でいえば「ヨゴレ」というヤツだろうか。
まあ彼女の意見については自分が誤読して部分もあるかもしれない。
でも自分のお眼鏡にかなわない作品は滅びろとまで言っているのだから、誤解はそんなに無いのでは無いかと思う。
さらに続く。
その初登場シーンには震えた。
「もし僕がジャンプで一番人気の作家になったら、僕が嫌いなマンガをひとつ終わらせる権限をください」
ゾクゾクした。
このセリフは結局「見栄切り」の用途で使われたということになるが、読んでいるうちにいつ伏線になるかという緊張感も与えていたと思う。
さて前回の続き。
楠本まきさんはジェンダーバイアスのかかった作品は滅べばいいと思っていて、そのガイドラインを作ろうという。
根本的な疑問なのだが、ルールを作ったはいいが、それが拡大解釈されて過剰な自主規制に繋がらないとでも思ってるんだろうか。あまり漫画家で、自ら出版コード的なものを作ろうという話は自分が不勉強なのかあまり聞いたことがない。
(画像は「ゴーマニズム宣言」)
楠本さんは、タバコの描写で書き直しを命じられた経験を持っているそうだ。
未成年はもちろん、かっこいい大人がタバコを吸うシーンはダメで、カッコ悪いのはOKなのだそうだ。そんな業界のルールを信頼している人なのである。
聖人か。
しかも本人はこれまで生きてきて、何らジェンダーの被害を受けたことがないというのだ。大きな枠組みの中ではあったとも言っているが。ニュースで女子の医者のを見て、初めて問題意識を持ったそうだ。黒人でもなんでもない日本人の家族から始まった黒人差別反対運動が、過剰な自主規制に発展していったのと似ている気がする。
(画像は「ゴーマニズム宣言」)
だから問題として出てくるのが「おたまを持ったお母さん」だったり、「婚活アップ女子」だったり。そこなの?と思ってしまう。潜在的な差別心を助長するという理屈はわからんでもないが、単純に言ってそれを発禁にできるだろうか。それに潜在的とかいいだしたらなんでもアリだ。リアリティを追求するのをサボっているというのはそうかもしれないが、記号的に描かなきゃいかん場合もある。そもそも漫画というのは記号の集合体で、省略もテクニックの一つじゃあないか。
こういうルールが適用されると昔の漫画が発禁になる恐れもあるな。
ドクタースランプ完全版なんて、完全版と言いつつも読むに耐えないものになっているが。
前回紹介した、ちばてつやの「ユカをよぶ海」のように面白い漫画を描いてジェンダーバイアスが取り除かれれば一番良いと思うし、作家として健全だと思う。理想論かもしれないが。楠本まきさんは作家なのに何故ガイドライン作りに頼ってそれを目指さないのか。描いてるらしいけど、残念ながらこっちまで届いてきていない。
ふと気づいたけど、俺はこの人の描いた非ジェンダーバイアス漫画を読もうという気が全く起きなかった。掲載されていた1コマから、ニーチェ先生とか、クロエの流儀みたいな「うまいこと言ってやったぜ」的なのが鼻につく論破漫画の匂いを感じたからだろうか。「滅びればいい」とまで言っているということは、自分の作品には一切ジェンダーバイアスは無いと盲信しているのだろう。そんな人間は間違いなく邪悪である。
長年漫画を読んできて、漫画とはこういうものだという固定概念が崩壊することが度々ある。「こういうものだ」が書き換えられてアップデートされるたびに、自分の小ささを実感し、漫画ってのは自由ですごいものだなあと思い直すのだ。
だから老害化してしまった作家を見るとゾクゾクする。
誤解されるかもしれないが、正直嬉しいと思ってしまう。
スプラッタ描写に爆笑するようなホラー映画ファンの心理といおうか。
(自分はホラー映画が苦手だけれども)
手塚治虫を邪道と評した島田啓三。
プライベートな場所で発言したことが後世に伝えられてしまったのは気の毒ではある。
自分が漫画のガイドラインだと錯覚した寺田ヒロオ。
作家では無いけども、アトムやライダーを暴力反対の槍玉に挙げた人たち。
寺田島田に関して、このまま漫画が自由にアップデートを繰り返して言ったら自分は淘汰されてしまうという危機感があったのではという説を最近聞いて、なるほどなあと思った。だから良識という言葉を盾に邪魔者の排除を図って、「自分に居心地の良い古き良き時代」を守ろうとした?楠本まきさんもそうだとは言わないけども、近いところはあると思う。漫画で敵わないから、良識を持ち出して政治で漫画表現を変えようとする。芸人でいえば「ヨゴレ」というヤツだろうか。
まあ彼女の意見については自分が誤読して部分もあるかもしれない。
でも自分のお眼鏡にかなわない作品は滅びろとまで言っているのだから、誤解はそんなに無いのでは無いかと思う。
さらに続く。
ジェンダーバイアスのかかった漫画はなぜ滅ぼされなくてはならないのか?令和のテラさんここにあり [時事ネタ]
今度はジェンダーバイアスだそうだ。
楠本まきさんという漫画家が「ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅びればいい」と語って注目を集めているらしい。そのインタビュー記事を頑張って好意的に読んでみたつもりだが、どうにも共感できないものだった。
そもそもジェンダーバイアスって何って話だ。
意味のことではない。
それを出版コード化してしまおうという姿勢に疑問を感じてしまう。
ちなみにインタビュー記事ではジェンダーバイアスを以下のように定義している。
>ジェンダーバイアス…性別によって社会的・文化的役割の固定概念を持つこと。社会における女性に対する評価や扱いが差別的であることや、「女性(男性)とはこうあるべき」となどの偏ったイメージ形成を指す。
インタビューのまずこの部分を読んで、首を傾げてしまった。
>その作品では、女の子が可愛いと思う女の子を描きたい、というのがまず第一にありました。その頃主流の少女漫画は学園モノで、特に取り柄もないしパッとしない主人公が、何かと男の子に尽くして、その優しさ(?)にほだされた彼の心を射止めてハッピーエンドというような話が多かったんです。私は、こういう主人公は嫌だなあと思っていて。「KISSxxxx」に出てくる“かめのちゃん”というキャラクターは、自分の容姿にうじうじ悩むこともないし、ややトロくても全く卑下しない。誰にも尽くさないし、男の子がいてもいなくても楽しくやっていけます。もちろん女子力アップも目指しません。それで、今も本当にたくさんの、当時少女だった読者の方たちが「私はかめのちゃんになりたかった」と言ってくれるんです。それがとてもうれしい。ちゃんと受け取ってもらえてよかったな、って。
連想したのはちばてつやの漫画、「ユカをよぶ海」だ。ちばてつやといえば「あしたのジョー」や「のたり松太郎」の人だが、「ユカをよぶ海」は少女漫画として描かれている。読んだことはないが、ちばてつやの自伝を二冊読んだその中でどちらにも取り上げられていて印象に残っている。最初に読んだ本は所有してないので記憶に頼るのだが、主人公の女の子がつまづいて「いけね」と舌をペロリ(テヘペロ)と描写したところ、大反響を巻き起こしたいう。
所有する『ちばてつやが語る「ちばてつや」』にはこうある。
>主人公のユカはいわば野生児のような少女で、『ママのバイオリン』のまなみとは大きく性格が異なる。前に述べたように当時の少女漫画といえば悲しい話ばかりで、ひたすら受け身の主人公が過酷な運命に耐えていくというパターンに、私はかなりストレスを溜めていた。そんな反発もあって、連載第二作は明るくて活発で、自分を率直に表現できる主人公にしてみたかった。主人公のユカが悲運に翻弄されるのは今まで通りだったが、いじめられて泣いてばかりいる主人公から、いじめられた時には言い返し、我慢し切れなくなった時には反撃するという方向に反旗を翻した。
>ユカは男の子が相手でも噛みついたりひっぱたいたり、時には取っ組み合いのケンカさえしてしまう。私はそんなユカをとても気に入っていたが、可憐な女の子が暴挙に出たり、ギャグで笑わせたりするというのは、当時の少女漫画ではタブーだった。予想通り、ユカが男の子に反抗するシーンを見た担当編集者はびっくりして、「これはちょっとまずいよ、せっかく人気が出てきたんだから描き直して」と言ってきた。この時ばかりは私の遅筆が功を奏した。締め切りはとっくに過ぎていて、もう描き直す時間がない。「それじゃあ間に合いません」とこちらも抵抗し、編集者も仕方がないと、不安を抱えながらもその回を載せてくれたのだ。
>するとどうだろう。発売直後から、私の家に読者からの手紙がドドドッと大量に届いたのである。当時の漫画雑誌はファンレターの送り先として、作者の住所を直接載せていたのだ。うれしいことに、どの手紙にも「お転婆なユカちゃん大好き」「男の子をやっつけて胸がすっとした」「もっと活躍させて!」と、ユカへの応援メッセージが書いてある。読者が、元気でお転婆な主人公を、熱熱に支持してくれたのだ。私は心の中で快哉を叫んだ。
>それまでは他人から何をされても我慢して、健気に生きていく、どこから見てもこんなに優しい子はいないという少女が主人公と決まっていた。そして、そうした主人公を読者の女の子たちが喜ぶものと漫画家も編集部も決めつけていたが、やはりそこには人間として無理がある。
>「女の子だって僕らと同じ人間だ。いじめられたら我慢しない。うれしい時は思い切り笑っていいんだ。口を閉じて上品に『ほほほ』なんてしなくていいんだ」
>そう思うと、ずっと感じていたモヤモヤが吹っ切れたような気がした。
>それ以後、さらに喜怒哀楽を表に出すキャラクターにユカを変えていくと、人気はますます確実なものになっていく手応えを感じた。
ちばてつやの場合、固定観念に凝り固まった編集者との戦いはあったわけだが、そういった交渉に使うための武器の一つとしてジェンダーバイアスがあっても良いと思う。しかしジェンダーバイアスを楯に交渉を押し切ろうとすると話がおかしくなってくる。一番大事なのは、面白いかどうかだ。楠本さんはルールとしてまずジェンダーバイアスのかかったものを一律禁止するという姿勢なのがおかしいと思う。
「ユカをよぶ海」は一番理想的なジェンダーバイアスの打ち破り方をした作品と捉えて間違いないと思う。ステレオタイプを打ち破った少女像が、新たなステレオタイプ像になるほどの大きな需要があったのだから。ドラッカー的に言えば、潜在的な顧客を創造したということだろうか。いわゆる、漫画はこうであるというお約束を打ち破ったわけである。ジェンダーバイアス言わなくても、そう言った固定概念を覆すことが商売の成功につながっていることは漫画に限ったことではない。
楠本さんインタビューにはこうある。
>それで、今も本当にたくさんの、当時少女だった読者の方たちが「私はかめのちゃんになりたかった」と言ってくれるんです。それがとてもうれしい。ちゃんと受け取ってもらえてよかったな、って。
楠本さんも、ユカをよぶ海も、商業的に成功をおさめたから一見正しいと思える。しかし、ユカ的な活発な女の子が少女漫画のお約束になって、生き苦しくなった内向的な女の子だってたくさんいたはずなのである。誰がその非ジェンダーバイアス観が正しいと言い切れるのだろうか。
楠本さんが問題に挙げている部分も首を捻る。
>今、私は少女漫画誌というより、もう少し年齢層の高い女性漫画誌で描いているんですけど、そうすると、婚活とか、女子力がテーマみたいな作品がものすごく多いんですよね。で、どうしてこうなるのかなと考えたときに、作家自身がジェンダーバイアスに囚われていると、まあ、作品もそうなってしまうよね、と。
>でも漫画だけではないですよね。姪っ子が小学校の4年生くらいの時に「女子力アップして、彼氏をゲット」みたいなライトノベルが流行っているんだと言って読んでいて、とても衝撃を受けたんです。これは本当になんとかしなきゃと思いましたね。
自分はイケメンでありながら、もう10年以上も彼女作りを失敗し続けて一度も成功したことのない人間だ。まあこの人的に言えば、彼女作らないと幸せになれないと世間にマインドコントロールされてる哀れな人、もっと他の生き方があるはずよ!頑張って!となるのだろう。大きなお世話である。
早い話が楠本さんは江川達也や山田玲司的な漫画家さんなのだと思う。
レールに乗った生き方をしている人を見ると、自由になれ!騙されてる!俺が本当の生き方を教えてやる!という人。
このままレールに乗り続けていたら死ぬ、苦しい、という人にこういう生き方があってもいいんじゃないですかと言うのはいいと思うんだけど、社会と自我をうまく折り合いつけてやっていくからこそ世の中回っていくと言う尊さってのが眼中にない。
過労死する社畜もいれば、コーラしか飲めずに死んだ漫画家も実際にいただろうし、ホームレスになって疾走して日記を描く漫画家もいたし、55歳になって仕事がなくなりお遍路旅をする漫画家もいた。花の慶次だったか。「自由とはのたれ死にする自由でもある」ってセリフをどこかで読んだ。自由になれと言って結果お前がその責任とるんかいという話だ。
耳をすませばにも有名なセリフがある。
「よし、雫。自分の信じる通り、やってごらん。でもな、人と違う生き方は、それなりにしんどいぞ。誰のせいにもできないからね」
うろ覚えだが、冨樫森監督、魚住直子原作の「非・バランス」はヒロインの「学校に通うことは戦争だ!」と言うセリフから始まっていて心を撃ち抜かれた。
そういう世間と折り合いをつけていく覚悟をしている人間を、操られているかわいそうな人としか見ない楠本さん的な人間は、俺から見たら逆にバイアスがかかって見えるのだ。
もちろんジェンダーバイアスを取り払うテーマはあっていいと思う。
正しさを誰かが決めるのかというのが難しい問題だ。
それを決めるのに楠本さんはふさわしくないと、俺個人は思う。
楠本さんはただのテラさんだ。
ちなみにプロからも非の打ち所がないと言われながらも「でも私じゃないよね」と言われ続けた俺だからこそ分かる女性観というのもあると思う。俺に言わせればこの世の中にはバイアスのかかった女性像しかない。楠本さんにだって絶対描けないと確信しているのである。やーいやーいバイアス作家〜!
欲を言えば、トップ画像を0.5°ほど時計回りに回転させ、左右1mmずつカットして欲しかった…「ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅びればいい」。漫画家・楠本まきはなぜ登場人物にこう語らせたのか https://t.co/s77fELgW8o
— 楠本まき (@makikusumoto) 2019年4月10日
楠本まきさんという漫画家が「ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅びればいい」と語って注目を集めているらしい。そのインタビュー記事を頑張って好意的に読んでみたつもりだが、どうにも共感できないものだった。
そもそもジェンダーバイアスって何って話だ。
意味のことではない。
それを出版コード化してしまおうという姿勢に疑問を感じてしまう。
ちなみにインタビュー記事ではジェンダーバイアスを以下のように定義している。
>ジェンダーバイアス…性別によって社会的・文化的役割の固定概念を持つこと。社会における女性に対する評価や扱いが差別的であることや、「女性(男性)とはこうあるべき」となどの偏ったイメージ形成を指す。
インタビューのまずこの部分を読んで、首を傾げてしまった。
>その作品では、女の子が可愛いと思う女の子を描きたい、というのがまず第一にありました。その頃主流の少女漫画は学園モノで、特に取り柄もないしパッとしない主人公が、何かと男の子に尽くして、その優しさ(?)にほだされた彼の心を射止めてハッピーエンドというような話が多かったんです。私は、こういう主人公は嫌だなあと思っていて。「KISSxxxx」に出てくる“かめのちゃん”というキャラクターは、自分の容姿にうじうじ悩むこともないし、ややトロくても全く卑下しない。誰にも尽くさないし、男の子がいてもいなくても楽しくやっていけます。もちろん女子力アップも目指しません。それで、今も本当にたくさんの、当時少女だった読者の方たちが「私はかめのちゃんになりたかった」と言ってくれるんです。それがとてもうれしい。ちゃんと受け取ってもらえてよかったな、って。
連想したのはちばてつやの漫画、「ユカをよぶ海」だ。ちばてつやといえば「あしたのジョー」や「のたり松太郎」の人だが、「ユカをよぶ海」は少女漫画として描かれている。読んだことはないが、ちばてつやの自伝を二冊読んだその中でどちらにも取り上げられていて印象に残っている。最初に読んだ本は所有してないので記憶に頼るのだが、主人公の女の子がつまづいて「いけね」と舌をペロリ(テヘペロ)と描写したところ、大反響を巻き起こしたいう。
所有する『ちばてつやが語る「ちばてつや」』にはこうある。
>主人公のユカはいわば野生児のような少女で、『ママのバイオリン』のまなみとは大きく性格が異なる。前に述べたように当時の少女漫画といえば悲しい話ばかりで、ひたすら受け身の主人公が過酷な運命に耐えていくというパターンに、私はかなりストレスを溜めていた。そんな反発もあって、連載第二作は明るくて活発で、自分を率直に表現できる主人公にしてみたかった。主人公のユカが悲運に翻弄されるのは今まで通りだったが、いじめられて泣いてばかりいる主人公から、いじめられた時には言い返し、我慢し切れなくなった時には反撃するという方向に反旗を翻した。
>ユカは男の子が相手でも噛みついたりひっぱたいたり、時には取っ組み合いのケンカさえしてしまう。私はそんなユカをとても気に入っていたが、可憐な女の子が暴挙に出たり、ギャグで笑わせたりするというのは、当時の少女漫画ではタブーだった。予想通り、ユカが男の子に反抗するシーンを見た担当編集者はびっくりして、「これはちょっとまずいよ、せっかく人気が出てきたんだから描き直して」と言ってきた。この時ばかりは私の遅筆が功を奏した。締め切りはとっくに過ぎていて、もう描き直す時間がない。「それじゃあ間に合いません」とこちらも抵抗し、編集者も仕方がないと、不安を抱えながらもその回を載せてくれたのだ。
>するとどうだろう。発売直後から、私の家に読者からの手紙がドドドッと大量に届いたのである。当時の漫画雑誌はファンレターの送り先として、作者の住所を直接載せていたのだ。うれしいことに、どの手紙にも「お転婆なユカちゃん大好き」「男の子をやっつけて胸がすっとした」「もっと活躍させて!」と、ユカへの応援メッセージが書いてある。読者が、元気でお転婆な主人公を、熱熱に支持してくれたのだ。私は心の中で快哉を叫んだ。
>それまでは他人から何をされても我慢して、健気に生きていく、どこから見てもこんなに優しい子はいないという少女が主人公と決まっていた。そして、そうした主人公を読者の女の子たちが喜ぶものと漫画家も編集部も決めつけていたが、やはりそこには人間として無理がある。
>「女の子だって僕らと同じ人間だ。いじめられたら我慢しない。うれしい時は思い切り笑っていいんだ。口を閉じて上品に『ほほほ』なんてしなくていいんだ」
>そう思うと、ずっと感じていたモヤモヤが吹っ切れたような気がした。
>それ以後、さらに喜怒哀楽を表に出すキャラクターにユカを変えていくと、人気はますます確実なものになっていく手応えを感じた。
ちばてつやの場合、固定観念に凝り固まった編集者との戦いはあったわけだが、そういった交渉に使うための武器の一つとしてジェンダーバイアスがあっても良いと思う。しかしジェンダーバイアスを楯に交渉を押し切ろうとすると話がおかしくなってくる。一番大事なのは、面白いかどうかだ。楠本さんはルールとしてまずジェンダーバイアスのかかったものを一律禁止するという姿勢なのがおかしいと思う。
「ユカをよぶ海」は一番理想的なジェンダーバイアスの打ち破り方をした作品と捉えて間違いないと思う。ステレオタイプを打ち破った少女像が、新たなステレオタイプ像になるほどの大きな需要があったのだから。ドラッカー的に言えば、潜在的な顧客を創造したということだろうか。いわゆる、漫画はこうであるというお約束を打ち破ったわけである。ジェンダーバイアス言わなくても、そう言った固定概念を覆すことが商売の成功につながっていることは漫画に限ったことではない。
楠本さんインタビューにはこうある。
>それで、今も本当にたくさんの、当時少女だった読者の方たちが「私はかめのちゃんになりたかった」と言ってくれるんです。それがとてもうれしい。ちゃんと受け取ってもらえてよかったな、って。
楠本さんも、ユカをよぶ海も、商業的に成功をおさめたから一見正しいと思える。しかし、ユカ的な活発な女の子が少女漫画のお約束になって、生き苦しくなった内向的な女の子だってたくさんいたはずなのである。誰がその非ジェンダーバイアス観が正しいと言い切れるのだろうか。
楠本さんが問題に挙げている部分も首を捻る。
>今、私は少女漫画誌というより、もう少し年齢層の高い女性漫画誌で描いているんですけど、そうすると、婚活とか、女子力がテーマみたいな作品がものすごく多いんですよね。で、どうしてこうなるのかなと考えたときに、作家自身がジェンダーバイアスに囚われていると、まあ、作品もそうなってしまうよね、と。
>でも漫画だけではないですよね。姪っ子が小学校の4年生くらいの時に「女子力アップして、彼氏をゲット」みたいなライトノベルが流行っているんだと言って読んでいて、とても衝撃を受けたんです。これは本当になんとかしなきゃと思いましたね。
自分はイケメンでありながら、もう10年以上も彼女作りを失敗し続けて一度も成功したことのない人間だ。まあこの人的に言えば、彼女作らないと幸せになれないと世間にマインドコントロールされてる哀れな人、もっと他の生き方があるはずよ!頑張って!となるのだろう。大きなお世話である。
早い話が楠本さんは江川達也や山田玲司的な漫画家さんなのだと思う。
レールに乗った生き方をしている人を見ると、自由になれ!騙されてる!俺が本当の生き方を教えてやる!という人。
このままレールに乗り続けていたら死ぬ、苦しい、という人にこういう生き方があってもいいんじゃないですかと言うのはいいと思うんだけど、社会と自我をうまく折り合いつけてやっていくからこそ世の中回っていくと言う尊さってのが眼中にない。
過労死する社畜もいれば、コーラしか飲めずに死んだ漫画家も実際にいただろうし、ホームレスになって疾走して日記を描く漫画家もいたし、55歳になって仕事がなくなりお遍路旅をする漫画家もいた。花の慶次だったか。「自由とはのたれ死にする自由でもある」ってセリフをどこかで読んだ。自由になれと言って結果お前がその責任とるんかいという話だ。
耳をすませばにも有名なセリフがある。
「よし、雫。自分の信じる通り、やってごらん。でもな、人と違う生き方は、それなりにしんどいぞ。誰のせいにもできないからね」
うろ覚えだが、冨樫森監督、魚住直子原作の「非・バランス」はヒロインの「学校に通うことは戦争だ!」と言うセリフから始まっていて心を撃ち抜かれた。
そういう世間と折り合いをつけていく覚悟をしている人間を、操られているかわいそうな人としか見ない楠本さん的な人間は、俺から見たら逆にバイアスがかかって見えるのだ。
もちろんジェンダーバイアスを取り払うテーマはあっていいと思う。
正しさを誰かが決めるのかというのが難しい問題だ。
それを決めるのに楠本さんはふさわしくないと、俺個人は思う。
楠本さんはただのテラさんだ。
ちなみにプロからも非の打ち所がないと言われながらも「でも私じゃないよね」と言われ続けた俺だからこそ分かる女性観というのもあると思う。俺に言わせればこの世の中にはバイアスのかかった女性像しかない。楠本さんにだって絶対描けないと確信しているのである。やーいやーいバイアス作家〜!
ユカをよぶ海 コミック 全3巻完結セット (ちばてつや全集)
- 作者: ちば てつや
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 1997/09/01
- メディア: コミック
間柴熱愛発覚!ドラゴンフィッシュブローもびっくりの衝撃!お相手は運送会社社長令嬢か? [注目作品]
今週は一歩休み。
先週は間柴に彼女、あるいは間柴に想いを寄せる女性キャラ登場ということで、ネタにしようと思ってたんだけどタイミング的に出来なかったので今週やってみた。
あまり美人っぽくない。
間柴応援団である地獄会の会員のようだ。
間柴の勤める運送会社の経理のお姉ちゃんとかだろうか。
ところで運送会社って宅配便だったりするのだろうか。
アマゾンのおかげで今どき最も働き手がキレやすい職場になっているけれども、間柴が宅配の兄ちゃんだったら速攻で問題起こしてクビになってそうな気がする。
話を経理のお姉ちゃんに戻すけども、いいとこのお嬢さんだったりするのだろうか。不良少年の間柴にはお金持ちのお嬢さんが似合いそう。ひょっとして運送会社の社長令嬢かもとも思った。社長に対してタメ口だし。
ーさて、この間柴熱愛発覚について事情通のAさんに今後の影響を聞いてみた。
「伊賀戦の影響はどうでしょうね。間柴が勝ったら彼女が泣きながら拍手して皆から祝福されるみたいなシーンが思い浮かびますけども、負けたら交際どころじゃなくなってしまいます。昭和のラブコメがもうひと組増えて、これだけで10巻分は連載が延長されてしまいます。そういう意味で、今回の伊賀戦は今後の一歩にとって重要な分岐点になるのかもしれません。」
(アメリカ人による日本のラブコメ漫画批判)
ー伊賀が負けたら青木の日本タイトルはどうなるのでしょう?
「伊賀戦は中止ですね。これでさらに連載10巻分、話を縮めることができてリカルド戦が早まります。今後の一歩にとって重要な分岐点になります。」
よくよく考えると、アイディアマンの青木と、権謀術数のマロン栗田の対決は相性が良いのかもしれない。間柴に負けるにせよ、何か脅威を残すことはできるのか。
ドラゴンフィッシュブローを放ってから二週間後。
その拳は間柴の顎に届くのか否か。
来週のマガジンを待ちたい。
ところでサンデーのメジャー2ndはいつ連載再開するんだ。
そんなに満田拓也先生の病状が悪いのか。
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新紙幣登場!一万円札は渋沢栄一!1986年時の新紙幣登場は漫画でどう描かれていたのか? [時事ネタ]
新元号に続いて新札の発行には不意を突かれた。
なんかテンション上がるね。
電子書籍のおかげか紙の本が死に始めた報告をボチボチと聞く今日この頃ですが、電子決済の世の中になって紙幣は今回が最後のモデルチェンジになったりして。
紙幣のモデルチェンジで子供心に一番記憶に残っているのは、1986年に一万円札が聖徳太子から福沢諭吉になったこと。連載当時は近未来だった199X年が舞台の北斗の拳のオープニングに矛盾ができてしまった。
北斗の拳冒頭で、追い剥ぎたちが略奪したものの中で喜ぶのは水。札束は「今じゃケツをふく紙にもなりゃしねってのによぉ!」(原文ママ)と捨てられてしまう。核戦争で無法地帯化してキャッシュレスの世の中になったことを簡潔に説明しているのだが、捨てられる札束は聖徳太子の一万円札なのである。
こち亀42巻「はつめい博士の巻」で両さんが新紙幣を一番乗りでゲットして得意がるシーンも印象的だ。中川に「旧紙幣をとっておく方が価値が出るのでは?」と指摘され、すぐにテンションが落ちている。
もう一つ、「ハイスクール!奇面組」8巻の「変態コジキ王子の巻」も面白い。
ちょっとした冒頭の小ネタなのだが、主人公の父親がお札を眺めながら泣いているので、よっぽど家計が苦しいのかと察した主人公。高2になってもビッグワンガムを買うお金をせびっていた自分を恥じ、小遣いなんかいらないと宣言した途端ネタバラシとなる。
新札に変わるので旧紙幣を目に焼き付けておこうと思ったら、細かい模様に目が痛くなって涙していただけのウルトラ暇人だったというオチ。
聖徳太子(旧一万円札と五千円札)と伊藤博文(旧千円札)を聖ちゃんと博りんと呼ぶのも子供心に衝撃的だった。
ちなみに俺が子供の頃には五百円札というのもあった。
肖像は岩倉具視(いわくらともみ)。
いま一番岩倉具視が出ている漫画といえば「風雲児たち」だけども、1981年ごろの漫画で島崎譲の「青竜の神話(サーガ)」という幕末SF忍者漫画でも印象を残している。この岩倉具視はまあ「ともみ」という名前にふさわしい三國無双並みの史実無視のイケメンに描かれていて、2巻のおまけ漫画でも500円札の人物であることがネタにされている。
それにしても渋い人選だ。
渋沢栄一
津田梅子
北里柴三郎
探せばあるだろうけども、ちょっと出てくる漫画が思いつかない。。。
なんかテンション上がるね。
電子書籍のおかげか紙の本が死に始めた報告をボチボチと聞く今日この頃ですが、電子決済の世の中になって紙幣は今回が最後のモデルチェンジになったりして。
紙幣のモデルチェンジで子供心に一番記憶に残っているのは、1986年に一万円札が聖徳太子から福沢諭吉になったこと。連載当時は近未来だった199X年が舞台の北斗の拳のオープニングに矛盾ができてしまった。
北斗の拳冒頭で、追い剥ぎたちが略奪したものの中で喜ぶのは水。札束は「今じゃケツをふく紙にもなりゃしねってのによぉ!」(原文ママ)と捨てられてしまう。核戦争で無法地帯化してキャッシュレスの世の中になったことを簡潔に説明しているのだが、捨てられる札束は聖徳太子の一万円札なのである。
こち亀42巻「はつめい博士の巻」で両さんが新紙幣を一番乗りでゲットして得意がるシーンも印象的だ。中川に「旧紙幣をとっておく方が価値が出るのでは?」と指摘され、すぐにテンションが落ちている。
もう一つ、「ハイスクール!奇面組」8巻の「変態コジキ王子の巻」も面白い。
ちょっとした冒頭の小ネタなのだが、主人公の父親がお札を眺めながら泣いているので、よっぽど家計が苦しいのかと察した主人公。高2になってもビッグワンガムを買うお金をせびっていた自分を恥じ、小遣いなんかいらないと宣言した途端ネタバラシとなる。
新札に変わるので旧紙幣を目に焼き付けておこうと思ったら、細かい模様に目が痛くなって涙していただけのウルトラ暇人だったというオチ。
聖徳太子(旧一万円札と五千円札)と伊藤博文(旧千円札)を聖ちゃんと博りんと呼ぶのも子供心に衝撃的だった。
ちなみに俺が子供の頃には五百円札というのもあった。
肖像は岩倉具視(いわくらともみ)。
いま一番岩倉具視が出ている漫画といえば「風雲児たち」だけども、1981年ごろの漫画で島崎譲の「青竜の神話(サーガ)」という幕末SF忍者漫画でも印象を残している。この岩倉具視はまあ「ともみ」という名前にふさわしい三國無双並みの史実無視のイケメンに描かれていて、2巻のおまけ漫画でも500円札の人物であることがネタにされている。
それにしても渋い人選だ。
渋沢栄一
津田梅子
北里柴三郎
探せばあるだろうけども、ちょっと出てくる漫画が思いつかない。。。
津田梅子―六歳でアメリカに留学した女子教育のパイオニア (小学館版学習まんが人物館)
- 作者: みやぞえ 郁雄
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 1997/10/01
- メディア: 単行本
非モテのアラフォー独身男(ただしイケメン)が伊藤詩織「BlackBox」を読んだ [注目作品]
伊藤詩織の「BlackBox」を読み終えた。
なかなか一言では感想が描けない難しいテーマだった。
デートレイプされた女性の告発本という印象でほとんどの人がこの本を手に取るのだろう。
俺がこの本を手に取ったのは、ゴーマニズム宣言で取り上げたからという理由が大きい。
事件を漫画で描写したところ、小林氏が相手の男から訴えられたのだ。
さらに訴えられたことまで漫画にしたものだから、これはもう読まなくてはいけない。
はじめこの事件を知ったのは記者会見のニュース映像。
ずいぶん美人さんだなと思った。
モデルをしていたりもしたらしい。
会見で「詩織」としか名乗らなかったのは不思議な印象を受けた。
配慮しての結果なのだが、本人の容姿と相まってどこかミステリアスなイメージを与えて失策だったのではと思う。さらにところどころ「海外」のワードが出てくるので、正直言うと本を読むまで日本で起きた事件だとは思わなかった。そんなこんなで彼女に対するバッシングも多かった。
生半可な理解では語っちゃいけない事件だなと思ったので、最初あまり興味はなかった。
読んでみると色々難しい。
強姦されたという混乱で、効率よく相手を追い詰められていない。
ある程度心を落ち着かせた頃には大事な証拠の大部分が消え失せてしまっていた。
しかし混乱する気持ちは、本を読んで痛いほど分かった、ような気がした。
だからと言って「女性が勇気を振り絞ったのだからとりあえず有罪にしとけば間違いない」という本でもない。ウルトラ大雑把に言えば「司法にまだ欠点が色々ある」という話なのだが、この本を読んだ後に何を思えばいいのか、俺の理解力では今ひとつ伝わってこなかった。セカンドレイプについては、ちょっとだけ学べたような気がした。
女の子かわいそう!
相手の男がヒドイ目に合えばいいのにーという感想で終われば楽だ。
だが男は令状が出ていたのにも関わらず、現場の判断で逮捕されなかった。
安倍総理と間接的か直接的かつながってるらしいという情報も問題をややこしくしている。
確実なことは、仕事をエサに女を口説いたと非難されても仕方のないようなことを、訴えられた男がしていたということである。それ事態は逮捕されることではないが、俺だったら相当不名誉なことだ。その辺はかなりダメージを受けたのではないか。
仕事がらみの女性を口説くのはリスクがある。それがこの本に書いてある自分にとって一番身近な話題なのだが、本の趣旨とは離れるので今回はあまりそこに詳しく触れないでおこうと思う。
続く。
なかなか一言では感想が描けない難しいテーマだった。
デートレイプされた女性の告発本という印象でほとんどの人がこの本を手に取るのだろう。
俺がこの本を手に取ったのは、ゴーマニズム宣言で取り上げたからという理由が大きい。
事件を漫画で描写したところ、小林氏が相手の男から訴えられたのだ。
さらに訴えられたことまで漫画にしたものだから、これはもう読まなくてはいけない。
はじめこの事件を知ったのは記者会見のニュース映像。
ずいぶん美人さんだなと思った。
モデルをしていたりもしたらしい。
会見で「詩織」としか名乗らなかったのは不思議な印象を受けた。
配慮しての結果なのだが、本人の容姿と相まってどこかミステリアスなイメージを与えて失策だったのではと思う。さらにところどころ「海外」のワードが出てくるので、正直言うと本を読むまで日本で起きた事件だとは思わなかった。そんなこんなで彼女に対するバッシングも多かった。
生半可な理解では語っちゃいけない事件だなと思ったので、最初あまり興味はなかった。
読んでみると色々難しい。
強姦されたという混乱で、効率よく相手を追い詰められていない。
ある程度心を落ち着かせた頃には大事な証拠の大部分が消え失せてしまっていた。
しかし混乱する気持ちは、本を読んで痛いほど分かった、ような気がした。
だからと言って「女性が勇気を振り絞ったのだからとりあえず有罪にしとけば間違いない」という本でもない。ウルトラ大雑把に言えば「司法にまだ欠点が色々ある」という話なのだが、この本を読んだ後に何を思えばいいのか、俺の理解力では今ひとつ伝わってこなかった。セカンドレイプについては、ちょっとだけ学べたような気がした。
女の子かわいそう!
相手の男がヒドイ目に合えばいいのにーという感想で終われば楽だ。
だが男は令状が出ていたのにも関わらず、現場の判断で逮捕されなかった。
安倍総理と間接的か直接的かつながってるらしいという情報も問題をややこしくしている。
確実なことは、仕事をエサに女を口説いたと非難されても仕方のないようなことを、訴えられた男がしていたということである。それ事態は逮捕されることではないが、俺だったら相当不名誉なことだ。その辺はかなりダメージを受けたのではないか。
仕事がらみの女性を口説くのはリスクがある。それがこの本に書いてある自分にとって一番身近な話題なのだが、本の趣旨とは離れるので今回はあまりそこに詳しく触れないでおこうと思う。
続く。